人の死を乗り越える

人の死の乗り越えかたをわたしはまだ知らない。

おそらくこの先も効果的な方法や特効薬は見つからないと思っている。

そしてそれで良いと思っている。

わたしは血の通った人間だ。

身近であればあるほど、その人の死が大きな悲しみやショックをもたらすのは仕方ないと思っている。

乗り越えかたはわからないが、癒しかたは少しだけ知っている。

わたしはかつて友を亡くした。

もう20年以上も前の話だが、わたしにとって彼の死はショックだった。

大きなショックだった。

わたしが平凡な学生生活を送っているときに、彼はテレビによく出ていた。

彼は普通の人とは異なる道を選んで、眩いばかりのスポットライトにあたっていた。

テレビに出た翌日、通学のために電車にのれば、郷土のスターの話題ばかりが耳に入ってきた。

ほんの数年前までは同じ時間を過ごしていたのに・・・・・。

だいぶ先に行かれた。

置いてきぼりにされた気分だった。

そんなある日、彼は死んだ。

仕事中の事故だった。

彼を知る誰もが、その死を受け止められずにいた。

わたしも何年間も苦しんだ。

思い出がたくさんあるぶん辛かった。

でもやはり時の流れがそのイタミを癒してくれた。

もうそれしかなかったと言ってもいいだろう。

わたしはいまでもよく彼のことを思い出す。

特に、セミの鳴く頃になると、強く思い出す。

それはいつも一緒に自転車でのぼっていた少し急な坂道での思い出だ。

彼はわたしよりも脚力が強かった。

わたしは少し先にスタートするが、いつもその坂道で追いつかれてしまうのだ。

そして後ろからわたしを追い抜こうとする彼が、がんばれがんばれ、と決まって声をかけてくる。

わたしは必死に抜かれまいとするが最初から勝負はついている。

彼はぐんぐんと坂道をのぼり切り、わたしのことを待っている。

わたしは息を切らせながら、なんとか自転車をこいで、彼に追いつく。

毎週のように繰り返される些細な出来事だった。

この坂道は夏になると、セミがうるさいぐらいに鳴いていた。

わたしはセミの声を聞くと、この情景を思い出す。

イタミはいつのまにか、かけがいのない思い出になった。

わたしは人の死は、時の流れでしか癒せないと思っている。

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